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草刈ミカの《デコレーション絵画》 −前編−

マチスは絵描きになるなら舌を切れ、そうすれば絵を描くことでしか自分を表現できなくなるといった。しかし、そう言ったマチス自身が『画家のノート』という名著を残している。

現代美術は作品だけでは評価されない。理論といっしょになって、初めて作品になる。その理論を提供してくれるのが、美術評論家であり、学芸員である。近頃では哲学者が、理論なら任せろとばかり、絵も見ずに口先介入をするようになった。そうなれば、作家の方も理論に合うような作品をつくるようになる。さらには、そんなまだろっこしいことはやめにして、理論も自分で作ろうと、評論家を兼業する作家がふえている。

そんな中で成功したのが草刈ミカだ。草刈ミカは評論家に人気がある。鍵語をたくさん使って話してくれるからだ。セカイ系、反フラット派、色彩と線描とマチエールのアクロバティックな同居、グリッチ、画中画、凹凸絵画などなど、「絵の具のマインドコントロール」なんて名コピーである。

草刈ミカの幸運は、中ザワヒデキと出会ったことだ。中ザワヒデキは「色はビットマップで、線はベクター」と画像ソフトのアルゴリズムを持ち出すデジタル派である。「アナログ」の絵具で描く草刈ミカと、画像の「デジタル」処理をする中ザワヒデキとは対立すると思うのだが、二人とも評論家と作家を兼業しているので、そこは、お互い補完しあって、相乗効果があるのだろう。

もう一人、草刈ミカ論を書いている評論家に飯盛稀がいる。彼の美術評論はとくべつ難解だ。しかし、素直に読むと、彼の方法は、かって流行った「構造主義」との類似を感じる。象限、鉛直と水平、+と−など、二項対立らしきものを探して、それを組み合わせて、一覧表を作っているけれど、何か有意義な結果がえられるわけではない。

藤枝晃雄は「見ることと知ることの倒錯」を戒めている。絵画とは理論ではなく、「知覚に基づいた想像」であり、平面上に絵具で描かれた線や色や形を知覚して、それに〈類似〉した「主題」を想像している(自由な想像ではない)。具象的な主題もあるし、抽象的な主題もある。どちらにしろ、草刈ミカが言うように、絵具はアナログ的な物質であり、キャンバスの平面に絵具で描かれた「図像客体」を知覚して、その図像客体に類似した(アナログ)対象(図像主題)を想像するのが絵画である。批評はなによりも、作品を見る(知覚する)ことからはじめなければならない。(『知覚と想像の分離』についてはココ)

『凹凸絵画』に惹かれたのは、チューブから絞り出したような「絵具の紐」を見たからだ。いわば、ナマの絵具、画材としての絵具を見たわけだ。「絵具の紐」は、妙に生々しく、エロチックでもある。この「絵具の紐」は知覚された三次元の物質であり、想像されたイリュージョンではない。一言でいえば、それは絵画ではない。そっくりな蝋人形と肖像画をくらべると、どちらの方が生きて見えるか。もちろん〈知覚〉で見る蝋人形より、〈想像〉で見る肖像画の方が生きいきとしている。それなら「絵具の紐」は知覚しているのに、なぜ、そんなに魅力的に見えるのだろう。


柿栖恒昭(『現代絵画の再生』Kindle)は、生のマチエールあるいは絵肌の素材感を「素材表現」と名づけ、その例として、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》をあげている。ジョーンズは、《星条旗》や《標的》など、身の回りのものを描いてはいるが、ポップ・アーティストではない。ジョーンズの絵画はキャンバスに「絵具のかたまり」がたくさんぬられているけれど、それらが対象を構成することはない。絵具は色彩とはならず塊のままばらばらに散らばっている。絵具の塊を強調するためにジョーンズは絵具に蜜蝋を混ぜて、星条旗や標的や数字の輪郭線の囲いの中に「設置」(placement)する。彼はこれまで誰もやったことのない「素材表現」をする現代美術家なのだ。

「素材表現」を理解するには、絵画より彫刻のほうが分かりやすい。たとえば、ジョーンズの《ビール缶》は「素材表現」の作品なのだ。



《ビール缶》には、絵具のかたまりのかわりに、ブロンズのかたまりがある。眺めていると、触れたり押したり、持って見たくなる。この感覚が素材表現だ。写真でもこの触感を感じとることができる。しかし、はっきりと《ビール缶》の素材感覚を憶えているのは、『国立新美術館開館記念展』で、この《ビール缶》とジャコメッティの《ディエゴの胸像》をめぐって、ニョウボと言い合いをしたことがあるからだ。ニョウボは《ビール缶》になんの興味もしめさず、その代わり、《ディエゴの胸像》にはどうしても触りたいようで、しまいに私に触ってみろと言いだした。たしかにジャコメッティの彫刻は触覚的ではあるが、私がどうしても触りたくて、ムズムズしたのは《ビール缶》の方で、今でも、この写真を見ていると触れたくてムズムズしてくる。

『凹凸絵画』を見てみよう。この絵は離れて見れば、格子縞の模様が見えるけれど、近づいて見ると「絵具の紐」が見える。少し横から見れば、紐が波打っているのが見える。距離によって違って見えるのは桑久保徹の風景画()も同じだ。近づくとマチエール(物質的な絵具)が見え、離れるとパターン(格子模様)や図像(湖畔の風景)が見える。

近づいたときに見える「絵具のかたまり」は桑久保と草刈では違いがある。桑久保の絵具はかたまりになってはいるけれど、家具や電気製品や洗濯物の描写になっている。その意味では、ジャスパー・ジョーンズの《星条旗》や《標的》のような「素材表現」とはいえない。反対に、草刈の物質としての絵具は格子縞の三次元の太い線(紐)になっているのだから、絵具のかたまりとはいえない。しかし、どういうわけか、「素材表現」になっている。

これには、ちょっとしたレトリックがある。《凹凸絵画》の線は格子縞の長い、なめらかな線にもかかわらず、多くの論者は決まって「直接チューブから出した様な凹凸の絵具の線」という。チューブからそんな均一の長い紐が出せるはずもないけれど、「チューブから直接出した」といえば、それは画材(materials素材)ということになる。画材屋の広告には、チューブから絵具をニョロリとパレットに絞り出した写真を使っているではないか。

草刈ミカの表現技法の変遷は詳しく知らないけれど、現在の『凹凸絵画』の段階では、ジョーンズ、フランケンサラー、ルイスなどの素材表現の系譜につながるように見える。それは「格子縞の線」を「チューブから直接出したような絵具の紐」で「描く」という僥倖のお陰だ。格子縞がジョーンズの《星条旗》のストライプや《標的》の輪と同じ囲いの役割を果たしている。その囲いがそのまま絵具のかたまり(素材)になっており、これは、いわば『凹凸絵画』の「自己言及性」(W)ともいえるわけだ。

『凹凸絵画』は「パターン/デコレーション」から「抽象画」へと変化していくなかで、「チューブから直接出した(ような)絵具」という「物語」にいつまでも頼るわけにはいかない。実際には、口金の交換できる〈squeeze bag〉のようなものを利用しているけれど、企業秘密なのかもしれない。「格子縞」そのものはパターン(模様)だからイリュージョンは生まれない。「絵具の紐」は三次元の立体だから知覚が優勢で、想像は作動しにくい(高松次郎:注1)。おそらく、草刈ミカが今の方向を続けるなら、線による、オールオーバーで反造形的な抽象画になるだろう。そうだとすれば、『凹凸絵画』の「スクィーズ技法」が重要になる。スクィーズ技法で描かれた作品は『凹凸絵画』というよりは、むしろ『デコレーション絵画』がと呼ぶのがふさわしい。

抽象画のイリュージョン空間についてはグリーンバーグの「平面性」以来さまざまな議論がなされてきた。そして絵画はついに一切のイリュージョンを捨て、知覚するだけのドナルド・ジャッドのキューブ(ミニマル・アート)になり、さらにはそのオブジェさえ必要ないコンセプチャル・アートになった。このあたりのことは、『批評空間』の特集号『モダニズムのハード・コア』をめぐる論争に草刈中ザワがいかなる立ち位置にいるのか、詳らかにしないが、日本の現代美術家は、ほぼ全員がアンチモダニストだ。彼らは「抽象表現主義」と聞いただけで、逆上する。

草刈ミカの「デコレーション絵画」を技法からみると、モダニズムの抽象画の伝統につながる可能性がある。わたしは、抽象画を評価するために「描くことと偶然性」のスケールを使っている。これは美学の問題ではなく、抽象画の実践的鑑賞学だけれど、このスケールを使うと、絵がよく見えてくるのだ。今、私が一番高く評価しているのは、ジャクソン・ポロックの〈poured painting〉とゲルハルト・リヒターの〈squeezed painting〉の二つだ。

ポロックの「ポード・ペインティング」は、藤枝晃雄の「ポロック論」のキー・ワードで、アクションやドリッピングとはまったく異なる技法だということだ。リヒターの「スクィーズト・ペインティング」は私が、写真のプリントの水滴をこすり取る「スクイーザー」から命名した技法で、「描く」を減らし、「偶然」増やす技法だ。現在のところポロックのポーリングに匹敵する唯一の技法である。素材表現の視点から両者の技法を比較すると、ポロックの糸をひいたような細い線は、エナメル塗料の素材感がするし、リヒターの《Abstraktes Bild》の表面は擦られて出来た線やパターンというよりも、近作では、擦られてこびり付いている絵具の素材感のほうが強まっている。

この二人の技法と草刈ミカの「凹凸絵画」を比べたらどうなるだろう。すでにお気づきだろうが、草刈の『凹凸絵画』とリヒターの『アブストラクト・ペインティング』は同じ「スクイーズ技法」による絵画である。しかし、〈squeeze〉の言葉は同じだが、「絞る」と「擦する」では、意味が異なる。リヒターの〈squeezed〉はポロックの〈poured〉との類縁性から命名したもので、草刈ミカの「スクイーズ技法」とは無関係である。

ポロックのポーリングも近くで見れば、エナメルやペンキの盛り上がりがあるが、適当な距離で見れば、物質感がなくなり、描かれた線が現れてくる。それに対し、草刈ミカのおそらく「絞り袋」(squeeze bag)による「デコレーション・ペインティング」は絵具の紐を「設置」(placement)しているだけなので、素材感が強く、その分、「描くこと」が少なく、想像が働きにくい。

ポロックの「ポーリング技法」は、画家が筆で支持体に触れない、注ぎながら垂らしながら描く。リヒターの「スクイーズ技法」は筆ではなく、スクイーザーで絵具を擦る。草刈の「絞り袋の技法」は筆を使わず、直接チューブから出したような絵具の紐をキャンバスの上に「設置」していく。三人とも筆は使わない。その代わり、ポロックとリヒターは「注ぐ」と「擦る」で描いている。草刈は絵具の紐を「置く」だけで、想像を作動させるような「描く」ことはしない。

何がなんでも、イリュージョンを排除しようという現代美術においては、草刈ミカの『デコレーション絵画』こそ可能性を秘めているのではないか。後編ではそのことについてできれば少し書きたいが、どうなるやら。たぶん・・・・・

前編おわり

注1:「高松次郎の『紐』と『線』」では草刈ミカの線について論じています。 http://petapetahirahira.blog50.fc2.com/blog-entry-959.html 

テキスト:安積桂 美術評論家(絵画論) 2016/01/27

petapetahirahira.blog50.fc2.com
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阿佐ヶ谷TAVギャラリーで草刈ミカ展「凹凸絵画−バルス」を見た。

絵の具をチューブから絞り出した立体の直線が折り重なって精密な絵画を構成している。
注意深く探してみると対称を破る箇所がある。
作家はその破綻をエラーではなくグリッチと呼ぶ。制御から外れたにもかかわらずミスではないとは?

昨年の草刈ミカ×中ザワヒデキ対談ではグリッチは脳レベルで発生すると語っている。
実行ではなくプログラムの段階で発生した歪み。理性の統制を破って口から出てしまう失言?
しかしそれはエラーではない。制御しようとする主体を超えた上位次元での制御主体が予感される。

グリッチは明快な絵に底知れぬ深さを生んでいるように思われる。
展覧会サブタイトルの「バルス」は「崩壊」あるいは「閉じる」を意味するという。
一つの完成された世界を崩壊させ、ある次元を閉じて、何を呼び寄せるのかたいへん興味深い。


テキスト:山座寸知(comma night主宰)   2015/11/26 twitter @soonchee3the より​
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草刈ミカ 個展「凹凸絵画 – バルス」をTAV GALLERYで見る。
凹凸絵画は作品自身がシンプルで明快でありそのコンセプトも同様だ。
コンセプトについてはステイトメントがあるのでそれを確認されたい。

本質的にはハードな美術だが、そのシンプルさや明るい色彩と線の連なり、本人がモチーフとして採用した色面として張り付くサインが一層キャッチーさを増す。しかしよく観察すると線と色面の緊張感ある関係(後で述べる)や、画面の大きさ、絵具の物量に圧倒され、ただ事でない絵画であることが分かる。

彼女にとって凹凸絵画とは世界征服であり世界救済なのではないだろうか。

新作のオマージュ作品は中ザワヒデキ脳内混色絵画をほぼ正確にトレースし図(?)としてフラットに描き、その上に縦横無尽に色彩と物量がある線が走って重なりあっており、前回個展では画中画を出したがそのわかりやすく可愛らしい表現に比べるとハードだ。

そして画中画は彼女自身が敬愛する作家の特に好きな作品を自身の作品へ取り込むことで自分自身のものとする所有行為であり、脳内混色絵画は画素の集積でフラットなのだが、その上に彼女特有の物量と色彩を持つ線で覆い尽くすのは、好きすぎるから自分自身で覆い尽くすというのみならず、対立する問題を解決する意味も含むはずで、その画中画に関する考察を踏まえつつ、草刈ミカ特有の線について考えるにあたり持ってくると分かりやすいのは中ザワによるビットマップとベクターの対立という問題系だ。

ビットマップとベクターの問題系は美術史に通底する問題なのだが細かいことは端折るとして、彼女の線はその両者の対立を解決するもので、その点では美術史を通底する問題を自身の作品により解決させることであって、セカイ系と名乗るのもそれがある気がする。

また特有の線に関しては彼女の才能ともいえる製作方法であり、それについては本人に確認されると良い。


テキスト:みそにこみおでん (アートコレクター)   2015/11/25 Twitterより
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「凹凸絵画」のエクスプリカシオン・ド・テクストーー絵画における〈書き順〉問題をめぐって





勤労感謝の日――サラリーマンのためのこの日、サラリーマンのための――日本で最も狭い行政区画の1つである東京都を、ともすれば最も広漠な街に拡大し、かつ、それを余蘊無きまで疲労で覆い尽くす乗り物――中央線快速は「杉並三駅」に停車しない。何という骨折り損だろうか。休日に――この首都において最も醜い街の1つであると疑わない――阿佐ヶ谷へ向かうことほど億劫なことは無い。

しかし、筆者は強い意志を以って、再びこの街を訪れた。なぜならば、巷で話題の「凹凸絵画」なるものを、この眼で確かめずにはいられなかったからである。作品を目の前にすると、やはり、とりつく島が無く閉口してしまった。「畳の目を読む」ようなつもりで、下から、あるいは斜めから、作品に接近して目を凝らしていると、作家に声をかけられた。

放っておいてほしい気持ちが無いではなかったが、しばらく会話をした。そして、草刈は、自身の制作に通底するテーマが、中ザワヒデキによって明確に言語化されたと嬉しそうに語ってくれた。作家と評論家との、ある理想的な関係である。中ザワだけではない。彼女をとりまく優れた評論家たちの名は枚挙に暇がない。そして、彼らの集うTAV Galleryは――今日において最も美術関係者の耳目を集めるテーマである――〈画像〉をめぐる議論に相応しい場処である。

筆者はほとんど幼少から〈画像〉なるものに馴染みがなく、無論「ベクター」や「ビットマップ」などの概念を使いこなすリテラシーを有していないから、彼らの仕事に対し、何ひとつ付け加えることはできない。では、草刈の作品について今まさに書こうとしているとき、いったい如何なる視点から「凹凸絵画」を語り得ようか――。

そこで、あらかじめ構想を立てて制作をしているのか訊ねた。彼女は、前もって構想を立てており、実際に、8割はそれに従い、残りの2割は制作の過程で調節していると答えた。なんと挑発的な言葉だろうか。無論、描線に先立つ構想が如何なるものであるかも然ることながら、目の前に与えられた無数の線のうち、どれがその「2割」にあたるものなのか知りたい欲求に駆られたことは言うまでもない。

しかし、それ以上を訊ねることは野暮である。あるいは無意味であるに違いない。作家が順序や色の選択について独自の法則を有しているとしても、当の本人はそれを認知していないかもしれない。長きに亘る制作を通して、そのルールは意識下に潜められたかもしれない。すなわち、ここで追求しなければならないのは、作者における傾向とか習慣などといったものである。よって、これをめぐる問いは「如何に描いたか」という過去形で立ち上がるのではなく「如何に描くか」という現在形の時制をもつ。

そもそも、筆者にこの筆を執らせているのは、自身が作者の次に長くこの作品と面を付き合わせたであろうという自負である。では、やはり筆者にできることは「畳の目を読む」ことを除いて他に無い。つまり、ここでは、先に田附楠人の作品をめぐる論考において示した〈書き順〉問題に対する具体的な取り組み――「凹凸」のエクスプリカシオン・ド・テクストを試みたいと思う。

草刈作品には彫刻的な自由度が存在しないため、単に、より下あるいは奥の線ほど古く、より上あるいは手前の線ほど新しいと容易に知られる。作者による1つひとつの筆触すべてを追跡し、それを言葉で再現前することができるならば、それは「凹凸絵画」と私たちとのあいだにおける一種のアフォーダンスであると言える。

以下では「凹凸絵画」の最新作である《凹凸絵画 #46》について分析を行う。この作品は、規格が「910×1304 mm」と大きく、そもそも4枚の「455×652 mm」のキャンバスが合わされたものである。そこで、この絵画をデカルト座標に準え、それらを〈象限〉と捉えて分割する――作品は、作家の署名を以て完成の暁光を浴びるだろう。「凹凸絵画」において署名の記される右下のキャンバスは、たしかに〈第4象限〉と呼ぶに相応しい。

第一は、この絵画を構成するすべての線を、色・太さ・傾きのパラメータによって分類し、それらのシークエンスを確かめるだけの易しい作業である。傾きについては、鉛直 vertical のものを「V」、水平 horizontal のものを「H」、傾きが急 steep のものを「S」、緩やか gentle のものを「G」と略記する(ちなみに、いずれの傾きもキャンバスの規格に従属しており、それぞれの正接の値は「S」が910/652、「G」が455/652と見なして良い)。さらに「S」と「G」の傾きをもつ線については、右肩上がりのものを「+」、右肩下がりのものを「-」と付記する。

《凹凸絵画 #46》は基本的に対称的な構図であるため、いずれの〈象限〉に関しても、ほぼ同様の結果が得られる。また、それぞれがどの線を示しているか認知に易しいよう、大括弧内に、1束あたりの本数と束数の積のかたちで、その本数を記した。なお、隣接するいくつかの線は同一の束と見なし、それを構成する異なる色の線についてパーレン内に併記するが、暫らく経過した段階で付け加えられたと考えられるものについては「*」や「#」で注意を促す。

下が〈第2象限〉について解析を行った結果である。前述のとおり、これは何人にも容易に確かめられるため、ご照査されたい。

【凡例】(色)=(太さ)=(傾き)[(本数)]

【0】〔地〕
【1】黄緑=細=V[25×3]
【2】橙=細=H[24(1)×2]、白=細=H[(1)×2]、黄緑=太=H[1×4]
【3】赤=太=V[1×4]、白=中=V[2(1)×5]、黒=中 =V[(1)×5]
【4】青=細=S-[4(1)(1*)×4]、黄=細=S-[(1)×4]、黄=太=S-[1×6]
【5】青=細=S+[4(1)(1*)×4]、黄=細=S+[(1)×4]、黄=太=S+[1×6]
【6】紫=太=S+[1×2、3×3]
【7】紫=太=S-[1×2、3×3]
【8】緑=太=H[1×1]
【9】白=太=H[2(1)(1)×1]、黒=太=H[(1)×1]、肌色=太=H[(1)×1]
【10】白=太=V[2(1)×1]、黒=太=V[(1)×1]
【11】白=細=S+[(1*)×4]
【12】白=細=S-[(1*)×4]、赤紫=中=S-[10×1](※)
【13】薄橙=太=S+[1×1]、肌色=太=S+[1×1]
【14】白=太=G-[2(1)×1]、黒=太=G-[(1)×1]
【15】水色=中=G+[10×1、1×4、(1#)×1]、赤=太=G+[2(1)×1]、赤紫=太=G+[(1)×1]
【16】白=太=G-[1×1]
【17】赤紫=中=S+[1×1]
【18】白=太=G-[1×1]
【19】赤=細=V[1×6]
【20】白=中=G+[2(1#)×1]

まず、この結果から知られることは、驚くべきことに――※印で示した画面の左右中央にあしらわれている10本の赤紫の線が12番目のフェーズではなく13番目のフェーズにも属し得るということを除けば――審級の定まらない線が無いということである(同一のフェーズに属する線同士は、傾きが等しく平行であるため、互いに前後することが可能である)。つまり、この作品における表象のプロセスは、これ以外にあり得ないのである。あらかじめ構想を立てているのだから当然であるとも言えるが、もし草刈が画面を局所的にまなざしていたら、いくらか同時並行可能なシークエンスが発生しそうなものである。具体的には――「G」はともかく――「S」の傾きをもつ線の「±」両方が連続して描かれることなどから、彼女が横断的な視野をもっていることが推し量られる。

先に、いずれの〈象限〉でもほぼ同様の結果が得られると述べたが、詳細はすこし異なる。第7フェーズまでは、4つのキャンバスは互いに対称であり置換可能であるが、第8フェーズ以降の線は志向性を有しており、それぞれの位相が定められる(本来ならば、第6フェーズの紫色の太い線は、他の等しい傾きをもつ線と同様に第5フェーズに帰属すべきである。しかし、第7フェーズが一応の断絶を見せており、それぞれの〈象限〉において、第6・7フェーズの順序は入れ替わっていることが多い)。よって、それ以降の結果に関しては、上下あるいは左右へ変換すると「±」が反転することが確認できるだろう。

ここで私たちはある事実を無視できない。つまり、後半の描線によって4つのキャンバスのそれぞれが方向付けられたとしても、それらは依然として置換可能であるということである。やはり、私たちは目の前の作品が、完成された、静的な対象であると思い込みがちではないだろうか。それらを並び替えたとき、幾何学的に成立する他の3つのパターンがあり得ることを確認されたい。その意味において《凹凸絵画 #46》は確率論的な相貌を孕んでいると言える――作品は「別様でもあり得た」が、作者はただ1つの方向性を指定し、私たちの前に提示した。作品の構成を――文字通り――左右するのは、それぞれをどの〈象限〉として位置付けるかという選択だけであり、このとき「Mika Kusakari」の署名は、まさに、どれを〈第4象限〉と銘じるかという選択の現われに他ならない。

しかし、「凹凸絵画」では一貫して、形象はあらかじめ「地」に描かれることを思い起こさねばならない。それを覆ういくつかの線によって一部が隠れてしまった場合、「凹凸」の上から再度なぞることで、モチーフは表面に浮き上がる。署名も同様である。すると、署名は、上の結果における第0フェーズと第1フェーズのあいだに描かれており、そのキャンバスは最初から〈第4象限〉であることが運命づけられているのである。

すると、「凹凸絵画」の最新作において、対称性に関する意識は後景に退くことになる。草刈は、準備された構想をキャンバスに素描した上で制作を行うと語った。4枚のキャンバスを組み合わせる46作目は、それらを斉しく制作することで自ずと対称性を獲得する。しかし、作品の方向性はあらかじめ決定されていたのであって、志向性をもつ線によって対称性が破られるのではない。4つの象限は、初めからそれ以外にあり得ない位相を与えられていたのである。

では「2割」の予測されていない線は如何だろうか。それを対称性から知ることは容易である。たとえば、第15フェーズの赤・赤紫の太線3本組は、〈第1象限〉においてはその間に他のキャンバスには見られない水色の線が1本だけ追加されているし、〈第2象限〉以外では2本の赤紫色の線が赤線を挟むように引かれている。あるいは、第6・7フェーズの紫色の太線について、〈第2象限〉では、その一番左下の線が、〈第4象限〉では、右上から4本と最後の1本の計5本が、薄い紫色に置き換えられており、またそれらの順序については上述の通りである。これらは進行中の作品を前に、作家が当意的に施した〈変化〉であるとしか思われない。

やはり、真に重要な線を知るためには、再び時系列に注意を払うことが必要である。後半――文字通り――際立って繰り返される白線は如何なる意味を持つだろうか。筆者はこれらのあいだにアドホックに付け加えられた線が存在していると疑わない――。そして、それこそが、作家が自らの手で構想を逸脱し、作品を決定論的な次元から解き放つ一筆であるに違いない。たとえば、16番目と18番目のフェーズに現れる白線――この2本は、本来ならば同じ審級に置かれるはずだったのではないだろうか。あるいは、勇み足を恐れずに言えば、第16のフェーズに白色の太い線が2本引かれることで、この作品は完成する予定だったのではないだろうか。

しかし、作家はそのうちの片方を描いてしまったとき、完成を躊躇ったに違いない。この2本を異なる審級に引き裂く、1本の線――作品全体の中央、すなわち〈原点〉に最も近い場所に置かれた赤紫色の線分。それは、俄に、そこが作品全体の頂点や輪郭線の中点であることも可能であった過去を回顧させ――しかしこれ以外にはあり得なかった――現在を中止、あるいは遅延させる一筆である。

筆者は、これまでの長考が、すべてこの1本の線と出会うために費やされたのだと確信する。「凹凸」というマチエール――つまり、絵具が〈厚み〉をもつことの意味とは、どれほど細小な線分であれ、それが明確な意思の力によって作品に狭窄することを発見させることではないだろうか。

さて、このように目を凝らして絵画を見るという経験は、「凹凸絵画」のアフォーダンスを、より高次に惹起すると言えなくもない。実は、筆者は、草刈の作品にまとわりついている美術史的なジャーゴンを引き剥がしたいと願っていた――。果たして、彼女の作品を語るには特殊な概念が必要だろうか。しかし、小難しい議論から「凹凸絵画」を解放しようという試みは、作家はおろか、読者をも喜ばせはしないだろう。まったくの骨折り損である。筆者がこのエクスプリカシオン・ド・テクストを通して得たものとは、箸にも棒にもかからない長文と、重苦しい眼精疲労だけである。とは言え、一途な労働を於いて他に、驚嘆すべき作家の創造に報いることができるものなど無いと信じている。左様なら、この疲労をこそ彼女に捧げよう――。

ところで、疲れには、やはり、甘いものが効くという。筆を置こうとしている今、筆者は無性に「紗々」が食べたい。






テキスト :飯盛 希  批評家  2014/11/29  

http://www.art-it.asia/u/ngmrsk/HJK98lNECjcoPpYMsWiU/

 
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草刈ミカさん個展「凹凸絵画」について。草刈さんのステートメントの「グリッチ」への言及を初めて読んだ当時、正直その妥当性がよく分からなかったのだけれど、昨晩の中ザワさんとのトークでいくらかその意図するところが見えた気がする。 

中ザワさんによるバカCGの「脳レベル/手レベル」の区別を参照していた。脳による指示を手が愚直に機械的にアウトプットすることが実現しているのならば、原理的にはそこにミスは(手レベルでは)あり得ない…ただし脳の指示書自体が書き換わっている場合を除いて。これが草刈さんのいうグリッチだ。

グリッチとはメタ(=脳、形式)レベルのゆらぎがベタ(=手、物質)レベルに「正確」に(=アンチエイリアスされることなく)反映されてしまう現象だ。

この区別は伊藤ガビン氏がCGの値崩れを図り提唱した「バカCG」の元用法を中ザワ氏が脳レベルとし、対して自分のCG の機械の性質に由来するギザギザ等を「手(+マウス)レベル」とする記述に基づくが、ここは草刈さんが自分の脳‐身体系を機械(=手レベル)と見做しているとするのが妥当だろう

ただしそれはどうしても主観的なものであり宣言の形で説く他なく、自らグリッチを「愛しい」といってしまうことは独りよがりとみなされる危険性を拡大しかねない…。
しかしそれでも、グリッチをデジタルメディアから解放する試みは重要で意義深いものだ。

さて今回の対談ではやはり中ザワさん的なベクター/ビットマップの問題系を中心に展開していた。なるほど凹凸絵画はその表面はベクター的な線で構成されながらも、それは様々な色の重層による「ペインティング(=ビットマップ)の悦び」に溢れているという、二項対立の狭間に立つ作品群だ。

対談の背景として、今週末からの中ザワさんの個展、その名も「色彩魔方陣」開催直前というタイミングは重要だろう。魔方陣とは言うまでもなく方眼紙=ビットマップであり、それは差異の配列としての色彩と同義であり、極めてわかりやすいタイトルだ。
http://aloalo.co.jp/nakazawa/2014/11ej.html

しかし同展の白地に黒文字というその名に反して禁欲的極まりないフライヤーや、開催前一週間を切っての制作開始宣言を鑑みても、同展は彩り豊かなペインティングではなく、むしろ「文字座標型絵画」の流れを汲む記号的(あるいはまた別種の)差異配列による作品である可能性が高いのではないか。

更に同展が『現代美術史日本篇』の刊行記念を兼ねている点も重要ではないか。というのも今回の対談では、凹凸絵画を独立した作品群として評価するのみならず、現代日本美術の潮流の中に位置づけようという姿勢が窺えたからだ。

同書は循環史的美術史観の下戦後日本美術史を整理することを目論むが、2010年以降を扱う最終章はカオスラウンジや二艘木洋行に代表される潮流を「第四表現主義(仮)」として位置づけているという。中ザワさんの語法では表現主義と色彩派とはかなり重なり合う概念だ。

対談はその潮流をのりこえるものとして凹凸絵画を位置づける。それは例えばgnckさんによるグリッチ論や、先月kaikai kiki から翻訳出版された『The Medium of Contingency』のメディウム論との関係を通して。
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そこには中ザワさんのかなり確信犯的な結託と文脈操作の試みが窺えるように思われる。今週末からの個展もあるいはその文脈に沿い、著作の末尾に示した日本美術の将来の方向性を草刈さんと共に自ら具現化するものとして計画しているのではないか。

半ば二艘木洋行論になりつつあるという最終章も、裏を返せば中ザワさんがそのような傾向を歴史化し、自らは身を退こうという意志の表れにも見える(中ザワさんにとっての二艘木さんはかつて自身がバカCGでやり残したことを実現してみせたビットマップ的作家だ)。

最近の中ザワさんがあおいうにさんによるメンヘラ展や、外山恒一さん傘下のファシスト&ダダイストのお二人といった美術にとって境界的動きに関心を持っている様も興味深い。
そしてなにより、かつて自身がその一員であり現在もなお活発に活動している「新・方法」の歴史的位置づけがなされていない!

歴史的位置づけ、中ザワさんとってそれ自体が一つの作品であり、そのためには美術史をめぐる過去の(そしてこれからの)著作、更には歴史それ自体が画材でさえある。しかし氏が一貫して掲げてきた「生−死−死後」の三拍子は、どこまで貫かれるのか。自身、「新前衛」が既に混成的だと認めていた。

歴史の循環はフラクタル的に複数のスケールで確認されるものだという。いつか戦後日本史全体がより大きなスケールで見た時の一段階として包括され、そこから次の段階を見出すことがあるのだろうか。あるいはその(タイム)テーブルごとひっくり返してしまうのか?

なお、魔方陣、それは単にモナドの集合としてのビットマップではない。その各升目の中身が厳格なルールによって決定されている。方法主義が形式主義と一線を画する所以はここにある。
(形式が与える)任意の升目の埋め方=(色彩として選択された)任意の数値群の並べ方。

それ故方法主義は形式主義と違ってメディア横断的であり、かつ色彩主義と違ってプロトコル重視だ。
その意味ではこの個展もまた中ザワさんの長年の問題系を引き継いでいるのだろう。

ただ再び最初の話に立ち返るなら、草刈ミカさんの凹凸絵画は決して上に挙げた問題系に還元されうるものではない。
草刈さんの作品は何故だかわからないが、語りにくい。それこそ色々、重なり合わさっている、ピントが合わない、正面が見いだせない、結局、「すごい」としか言えない!

揃って横向く女性の姿(正面顔は強すぎる、という)、特有のファッション、画中画とそれが配置される空間の(?)歪み、正対の不可能性(どうやって写真撮るのだろう)、像とマチエールとの分離、等々。。そのような解釈格子の向こうを、彼女たちは横滑るように逃れ去っていくようなのだ。


テキスト:浦野玄馬 (立教大学生)  2014/11/17-18    Twitter @10aka_
より
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